根拠のあることとないこと
僕は、根拠が大好きだ。家族からは理屈っぽいとよくいじられる。
基本的に根拠のないことを信じるのが苦手だ。
つまり、占い、お詣り、綺麗事。
これらは苦手で毛嫌いしてきた。
しかし受験期、神社やお地蔵さんのもとへわざわざ足を運んで手を合わせた。
偉人の名言集をすかさず読んでは感動した。
元気の出る歌をたくさん聴いた。
どれも綺麗事だらけだ。
同時に論理的思考に長けた外国人がなぜ根拠のない宗教を信じるのかを考えた。
僕は宗教を別に真剣に信仰はしてないいわゆる無神論者なので、そのような人たちの本当の気持ちは理解しかねるが通づるところがあるのかもしれない。
つまり人間は未来は予測できない。
良いこと悪いこと何が起こるかどれだけ根拠を並べても完全に予想はできない。
根拠をもとに理論を並べられるのはあくまで過去に起こったこと、確立されたことだけだ。
未来のこともある程度、想定はできる。
しかし確定事項は確定するまで決してわからないのだ。
それはいくつ根拠があっても同じだ。
そういうものに僕らはひたすら不安を感じる。どんなに先が見えなくても僕何にも怖くないよ〜。先が見えないの最高だぁぁ。っていう頭の中お花畑な人はそんなに多くないだろう。
もちろん未来を想像して楽しいこともあるだろう。不安も同じようにある。
だからこそ根拠のないことを信じようとするのだろう。この未来の見えない心の穴を埋めるように。
同時に自分を客観視できる人は少ない。どうしても感情が必要以上に介入してくる。
その時ふと、自分を客観視するためのきっかけを与えてくれるものがある。
それが占いだと思う。もしかしたら自分はこうなのかもしれないと考えるきっかけを与えてくれるのだ。
占いは当てるものではない。そうではないかと考えるきっかけを与えるものなのだ。だから当たり外れもある。
そして、本当に辛い。だけど逃げたくない。こういう心境の時に、綺麗事ほどこころの支えになるものはないと受験期に感じた。
できないことはない!転んでも立ち上がれる!諦めたらそこで負けだ!
こんなしょうもない言葉たち。こんなものほとんどの場合、皮肉であり嘘であり勘違いである。
そのような言葉に支えられながらなんとか耐えた受験期ほど美しいものは一生でどれほどあるだろうか。
こういう言葉に支えられるほどのぎりぎりの状況で戦うことの価値は計り知れないと思う。
つまり、綺麗事と共に何かと闘っていられるほど強くて美しい生き方は無いのだ。
これらのことから自分は根拠のないこと、綺麗事などの素晴らしさを少しずつ知ることができている。